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下記地図上の各名称をクリックしていただくと、その説明箇所へジャンプします。
御上陸の置石
大正天皇が皇太子の時、山陰地方を巡行される中、明治40年5月13日、舞鶴から駆逐艦にて天橋立を観光されました。
当時、天橋立公園は与謝郡が管理しており、郡が管理する公園に初めて殿下が訪問されたことを無常の光栄とし記念行事として、皇太子が御上陸、御休憩所、御手植松の三箇所に置石を据えました。
この石は、御上陸の場所を示すものです。
一声塚・芭蕉の歌碑
『一声の江に 横たふや ほととぎす』
芭蕉の庵から程遠からぬ江戸墨田川の景をよんだものである。元禄6年(1693)年4月29日の芭蕉書簡に見られる。
ところで、芭蕉は天橋立に遊んだ証拠もないし、橋立をよんだ確かな句もないが、宮津の俳句を楽しむ人々は、芭蕉の塚がないのを残念に思い、この句を選び1767年文殊堂境内に歌碑を建立した。
広々とした川面を渡るホトトギスの声が、橋立のあたりの風景と重なって感じられたようである。
明治になって、当時の俳人たちは、この句の情景に天橋立を重ねたのであろうか、句の内容に相応しい場所にと、ここに移したのである。
一声塚の句は、土地の俳人たちが芭蕉の句をかりて感じとった橋立の心ともいえようか。芭蕉と橋立はそんな形でつながっていた。
蕪村の句碑
『はし立や松は月日のこぼれ種』
蕪村は、俳人、画家として名高い。大阪市豊中区の生まれとされています。幼少の頃は、与謝野町加悦の施薬寺で学び、17歳で上京し、絵と俳句を学んだ。
1754年、39歳の時、京都から宮津見性寺の住職・竹渓を訪ね、三年余り、ここ宮津に身をおいた。
特に、画業においては宮津時代の精進はものすごく、田楽茶屋図をはじめ、親交の深い3人の俳友を画いた三俳僧図など十数点に及んでいる。
御休憩の置石
大正天皇が皇太子の時、山陰地方を巡行される中、明治40年5月13日、舞鶴から駆逐艦にて天橋立を観光されました。
当時、天橋立公園は与謝郡が管理しており、郡が管理する公園に初めて殿下が訪問されたことを無常の光栄として記念行事として、皇太子が御上陸、御休憩所、御手植松の三箇所に置石を据えました。
この石は、御休憩の場所を示すものです。
磯清水
四面海水の中にありながら、少しも塩分を含んでいないとこから、古来から不思議な名水として喧伝されている。俳句にも、「一口は げに千金の磯清水」などとあることから、天橋立に遊ぶ人々には永く珍重されてきたことが明らかです。
延宝6年(1678年)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水記」を刻んで建碑した。この刻文には、丹後国天橋立之磯辺有井池清水湧出、蓋有海中面別有一脈之源乎、古来以為勝区曰磯清水、云々 とある。 湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪れる多くの人々に親しまれ、昭和60年には、環境省が「名水百選」の一つとして、選定している。また、平成20年、京都府の支援を得て、屋根等の修理を行った。
「余佐の浦 松の下なる磯清水 都なりせば 君も汲みみん」 幻旨(細川幽斎)歌集「衆妙集」から
橋立小女郎の小径
宮津の町に遊びに行って、橋立の帰り道、橋立明神にさしかかると、どこからもなく美しい娘が現れて、親切に手を引いたり、荷物を持ったりしてくれたが、夜が明けると娘はどこへ行ったか影も形の見えず、荷物も着物も財布もいつの間にかなくなって、すってんてんになっていたという。この娘を橋立小女郎といい、正体は小キツネであったと言われている。
このあたりは橋立の中でも幅の一番広いところで濃松(あつまつ)と呼ばれている。
天橋立神社
(橋立大明神とも言います。)
橋立大明神本社 正面は豊受大神、向かって左は大川大明神、右は八大龍王(海神)である。
かつては、皇大神を祀り、いわゆる元伊勢を移したものとの説もあるが、これは附設であり、やはり文殊信仰が流行した平安末期から鎌倉時代にかけて、文殊堂境内鎮守として祀られたものと言われている。
大砲
この大砲は海軍思想普及のため大正12年2月5日海軍大臣より下付されたものです。
1.名 称
40径安式15センチ砲身
2.製造会社
明治35年イギリス、アームストロング
3.砲身価格
16,000円
4.重 量
約5トン
5.長 さ
6メートル40センチ
6.砲丸重量
45キログラム
7.発射有効距離
12,500メートル
8.発射弾飛行時
38秒
9.弾丸火薬
1発価格100円
10.元搭載艦名
運艦春日
萬籟の句碑
『橋立や幾松か根の友がらみ』
萬籟(まんらい)は、安永8年(1779年)に油屋を営む荒木家に生まれ、5代目を受け継ぎました。
文化6年(1809年)宮津藩主から掛屋職(金融業)を命ぜられ京都に住み、文化12年掛屋職を退き、京都の芭蕉堂の人となり、俳諧をもって世に知られる。 天保13年(1842年)享年64歳で没す。
萬籟の孫である荒木金兵衛は、祖父の50回忌の供養に花崗岩のベンチを設置し、台石に萬籟の句「橋立や幾松か根の友がらみ」を刻んだものである。
岩見重太郎仇討の場
剣豪して名高い岩見重太郎兼相(けねすけ)は、父の仇として広瀬軍蔵・鳴尾権三・大川八佐衛門の3人を追って、ここ丹後の宮津へ来たが、仇の3人は重太郎を恐れて領主京極家に隠されている。そこで、重太郎は京極家に乞うて仇討を許され、寛永9年9月20日(1632年)ここ天橋立の濃松において3人を打ち倒し、ついにその本望をとげたと伝えられている。
この岩見重太郎は、薄田隼人と同一人とされ、豊臣家の家臣であったが、大阪冬の陣といわれる慶長19年11月(1614年)には大いに戦って有名をとどろかし、さらに、翌元和元年5月(1615年)の夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと言われる。いずれも講談師・大衆作家・映画会社などに重宝がられる話である。
恩賜の碑
昭和25年ジェーン台風の災害復旧に向け天皇陛下から励ましのお言葉を頂いたことを記念して建立した記念碑です。
与謝野寛・晶子ご夫妻の歌碑
平成18年、寛は生誕133年、晶子は128年になり、その名声は一層輝きを増しています。 寛は和歌革新の旗を掲げて「明星」を明治33年に創刊し多くの優れた詩人、歌人を輩出させました。寛の父は地元加悦出身の勤皇歌人の僧であったこともあり、寛・晶子ご夫妻は度々丹後に来ておられました。昭和5年5月にこの地を訪ねて以来、寛は45首・晶子は60首の短歌を遺されました。 寛逝去後、傷心の晶子が天橋立を訪れたのが昭和15年です。残念なことに晶子は帰郷後発病し、以後旅をすることもなく昭和17年5月逝去されました。 最後の吟遊の旅が他でもなく天橋立であったのです。 与謝野寛・晶子ご夫妻が想いを馳せたこの天橋立に、歌碑を建立することが私たちのせめてもの責務ではないかと考え、本会は、多くの天橋立を愛する人、与謝野寛・晶子に思いを寄せる人、歌に親しむ人びとのご協力・ご支援を賜り平成18年7月に建立する運びとなりました。
小雨はれみどりとあけの虹ながる与謝の細江の朝のさざ波
寛
人おして回旋橋のひらく時くろ雲うごく天の橋立
晶子
渡し場
見樗ヶ鼻((けんちょかはな)智恩寺側)から天橋立の松並木(はしだて茶屋裏)へ渡るのに、渡し船が着いたところ。今も桟橋があった跡が残っている。
明治、大正時代の文豪(小説家)特富蘆花(健太郎)が「月の天橋」の渡しの情景を書いている。
「月の天橋」 大正2年10月
今宵は陰暦10月14日の夜る、“帰るか”“ええ”二人は松影から月に出あるいて、砂路をぶらりぶらりと、その切戸の渡しにきた。
切れ戸の水は全く天河の如く美しく。渚に立って向ふを見れば、真黒い彼岸に唯一つ赤い灯が見える。文珠の渡し守が小舎の灯である。“おーおい”渡しを呼ぶ余の声が震えて、銀河を渡る前、二人は月の天橋の端に立ってしばらくその灯を眺めていた。
大天橋
見大正11年に完成した。
「小天橋」と呼ばれる松並木と「大天橋」と呼ばれる松並木を結ぶ橋で、内海(阿蘇海)と外海「宮津湾(与謝の海)」の海水が出入りし循環している。
波切(波関)地蔵
大天橋畔に立つ石の等身地蔵で、その昔海から大きな波が押し寄せ、村人たちは山の方へと皆逃げたところ、この地蔵様の所で大波が止まり、村人を救ったという言い伝えが残っている。村人たちは感謝し、地蔵様は今なお大切に祀られている。
昭和天皇の歌碑
『めずらしく晴れわたりたる朝なぎの 浦わにうかぶ天の橋立』
昭和26年11月13日、昭和陛下が、戦後の民情ご視察のため、山陰地方をご巡行になり、当地にご宿泊の際にご下賜いただいた御歌である。書は、元侍従長故入江相政氏である。陛下を歓迎し、この碑を吉津村(現 宮津市文珠、須津)で建てた。
廻旋橋
天橋立の松並木へ渡る方法は、昔は渡し船で、そして、手動による橋を廻旋させた。今は電動式に変わっているが、やはり文珠の風物詩でもある。小船であさり漁をしている人も見られるが、橋立の景色に溶け込んで見える。
手動廻旋橋は大正12年、工事費2万6千円で設計は京都大学教授近藤泰夫氏が担当した。電動廻旋橋は昭和35年3月に完成している。
1日多い時、約50回廻る。定期観光船が数回、そのほとんどがニッケル鉱石を運んできた大きな船が宮津湾に停泊し、そこから運搬船に移して文珠水道を通り、須津の冶金工場へ運ぶため、廻旋橋を開閉している。
昭和12年4月、鉱土運搬のため、商工大臣伍堂卓夫(海軍技術少佐)は軍をバックに、天橋立の切断を強く迫った。時の三井宮津町長は、橋立を守る有志の後援を得て、決死の覚悟でこれに反対し、ついに守り通した。
第2小天橋
砂嘴の発達により宮津湾と阿蘇海との水路は堆砂によって閉塞される傾向が強まり、船舶の航行上深刻な問題となった。
大正3 (1914年)年京都府は航路を確保するため、南砂嘴を中央部で切断し、狭い水路を掘削・拡幅して、小天橋が架かる九世戸の水路(文珠水路)を完成した。
南砂州の南半部は海岸から埋め立て、陸地の一部に取り込まれた。この部分を第2小天橋と言います。
第2小天橋には、東屋や自転車道が整備され、宮津湾を眺めながらの散策、サイクリングは楽しい。
命名松一覧
一声塚・芭蕉の歌碑の東にある「千貫」もあろうかという大きな松を、土地の人々は「千貫松」と呼んでいる。かつて、天橋立を愛した人たちは、「千貫松」のほかに「夫婦松」、「美人松」など、色々な松に名称をつけ、より自然に親しみました。「天橋立の松に愛称を付ける実行委員会」が、23日間にわたって募集したところ、全国から2,445の応募があり、その中から命名しました。
左記地図上の文字をクリックしていただくと、その松の説明をしている部分へジャンプします。
地 区
幹径/高さ
名 前
松名サイン内容等
摘 要
大天橋
120cm/20m
船越の松
昔からこの地を「船越」と称していることから命名された名松
古名松
大天橋
141cm/18m
双龍の松
二頭の龍が天へ昇る様を表す様に立つ
平成6年命名
(平成16年台風により倒木)
大天橋
73cm/13m
見返り松
道中でも巨木であり、振り返ってみたくなるような松
平成6年命名
大天橋
90cm/13m
小袖の松
松の枝が程良く垂れ下がり小袖を掛けている様な松
平成6年命名
大天橋
80cm/15m
なかよしの松
二俣でバランス良く立っていて仲良くしている様子
平成6年命名
平成11年二代目
大天橋
90cm/13m
雪舟の松
国宝「雪舟天橋立図」があることから雪舟の名を引用した
平成6年命名
大天橋
73cm/9m
羽衣の松
伝説「羽衣天女」を連想させる優美な松
平成6年命名
大天橋
68cm/15m
夫婦松
一本の幹から釣り合いのとれた二本が現れ、夫婦のごとく仲良く寄り添う名松
古名松
双幹
大天橋
68cm/13m
阿蘇の松
阿蘇海側にある代表的な名松
平成6年命名
平成14年二代目
大天橋
100cm/9m
千貫松
千貫文目の価値があると言われた名松
古名松
大天橋
80cm/16m
小女郎の松
民話「橋立小女郎」の小径が付近にある
平成6年命名
(平成16年台風により倒木)
大天橋
70cm/7m
手枕の松
手枕となるような名松
古名松
(平成16年台風により倒木)
大天橋
68cm/14m
式部の松
赤松(女松)のほっそりとした美しい姿であることから、和泉式部に準えた
平成6年命名
大天橋
84cm/13m
雲井の松
雲の合間に座るが如くという意味でそびえ立つ様を表している
平成6年命名
大天橋
49cm/12m
智恵の松
一本の松が三又になっていて「三人寄れば文殊の知恵」から引用された
平成6年命名
複幹
小天橋
67m/15m
九世戸の松
大天橋と小天橋の間に位置する松でこの地を昔から「九世の戸」と称している
平成6年命名
大天橋
52m/19m
御手植の松
明治40年、大正天皇が皇太子時代に御手植えされた松。(石碑あり)
明治40年5月13日
大正天皇
(強風被害により倒木)
大天橋
36m/14m
御手植の松
大正5年、昭和天皇が皇太子時代に御手植えされた松。(石碑あり)
大正5年7月5日
昭和天皇
大天橋
80m/14m
晶子の松
橋立を詠んだ与謝野晶子にちなみ命名された松。(守る会看板あり)
平成11年命名
大天橋
76m/16m
蕪村の松
松の絵を描いた与謝蕪村にちなみ命名された松。(守る会看板あり)
平成11年命名
傘 松
72m/16m
傘 松
地名「傘松」の由来となった松の三代目。(石柱あり)
百 選
国や団体が中心になって、道、白砂青松、松、水など、日本の百選として指定や選定をしています。
天橋立は、八つの百選に選ばれています。
・日本の名松百選(1983年)
・日本の名水百選(1985年)
・日本の道百選(1987年)
・日本の白砂青松百選(1987年)
・日本の渚百選(1996年)
・美しい日本の歴史的風景風土百選(2007年)
・日本の歴史公園百選(2007年)
・日本の地質百選(2007年)